古代蝦夷(えみし)の遺跡探訪(巨石信仰)
かなり長い記事になるため、予め、ご了解いただきたい。
また文中に「蝦夷」(えみし)という文字を使っている。
「えぞ」という読みは、11世紀になってからの読みなので、
予めご理解いただきたい。
「蝦」はエビを意味し、「夷」は髭が長いこと、あるいは
「弓を引く人」などの意味を有し、諸説が多い。
初めて「蝦夷」という語は、日本書紀で使用され、
そこでは、その中心が「日高見国」と書かれているが、
おそらくは、北上川周辺を指し示すものと思われる。
さらにそこには「豊かな国なので、討ってとるべし」とまで書かれている。
おそらく「蝦夷」は、「髭の長い野蛮人」という蔑称だと解釈するのが、
もっとも一般的であるといえる。
その討伐目的は、我欲を広げるためか、
あるいは、残した禍根(後に記述)を抹消するためかは定かではない。
あえてここでは蝦夷を使うが、正直なところ、使いたくもない。
しかしながら、あくまでも、この東の民族の総称として、
記事を進める都合上、蝦夷を使用することにした。
さて前置きが長くなったが、
今回、記事にするのは、
日本古代史にとって、飛鳥時代後期という
いわば日本国の礎となる時代のことである。
この飛鳥時代を、分かり易く述べるならば、
聖徳太子が国政に参加した頃に始まり、
伊勢神宮の式年遷宮も、この飛鳥時代に儀式化され、
桓武天皇が長岡京から平安京に遷都するまでの間を指し示すのだ。
この平安京遷都によって平安時代の幕が開いたという、
そんな古い時代の話・・・・。
古代飛鳥の日本では、邪馬台国(大和)から見た蝦夷(えみし)は、
まさに未開の野蛮人(鬼畜生)が住む地域。
何のことはない、大和の国が征服しようにも
容易には手出しができなかったという、僻遠の地だったということ。
しかしながら、記録には残っていないが
蝦夷の国は、独自の文化を有する、
ひとつの大きな民族国家であったという事実が残る。
すなわち飛鳥時代は、大和と蝦夷の二つの国が、
この日本にあったということなのだ。
もともと大和という国は、
九州方向から北上してきたといわれる邪馬台国の人々が、
出雲の斐伊(ひい)の国(島根県の斐伊川周辺)に住んでいた和人を滅ぼし、
身内から天皇を担ぎ上げ、大和の国を造ったのだといわれる。
残党となった和人は、北東北に逃れ、
「東の和」という国を造ったと推察されている。
その中心地が、現在の、岩手県花巻市にある東和町といわれる。
さらには、飛鳥時代前期からは、朝廷の命により流刑に処された者は、
この北上山地に「島流し」されていたという記録があるらしい。
気になる、岩手の地名に関するエピソード
地名にも斐伊ではなく稗貫(ひえぬき)が現存し、
「斐伊抜き」(ひいぬき)から転じた地名なのではないかとも推測できる。
また「下閉伊」(しもへい)という地名は、
「北に下った斐伊」の意味合いなのからだろうか?
語感からしてあまりに酷似している。
逃れてきた和人の悔しさが、地名に残っているのだ。
無理やりな「あて字」のエピソード
「邪馬台」が転じて「大和」となったのだろうということ。
「大和」という文字はこの「やまと」という読みに特化した漢字。
「大」と「和」は、どう読み替えても「やまと」とは読めない。
邪馬台国の民が、和の民を制圧したことで「大きな和」の国を名乗り、
大陸の中国から、国として認めさせようとしたがために、
無理にでも「やまと」と呼ばせたのだろう。
しかしながら、この記事内では、混乱を避けるため
読みの正当性に拘らず「大和」と表現することにした。
流刑者のエピソード
北東北ではピンポイントで、温暖な海辺の地域がある。
そこは、岩手県宮古市。
真冬の日照時間は、北部三陸海岸では群を抜いて長い。
宮古市の地名の由来は、現在でも不詳である。
もしかすると・・・・
都から流刑処分され、前途を閉ざされた人々が移り住んではみたものの、
「都」という文字を使えなかったがための、
「古き宮」の意味合いで
「宮古」という文字を充てたのではないかと・・・・。
「住めば都」ではなく、「住むならここ(宮古)」だったのだろうか?
話を戻す。
飛鳥時代の後期に、大和の国は、もうひとつ大きな禍根を残した。
先住民族であった蝦夷(えみし)と大和朝廷軍との間に、
長い戦争の歴史があったことだ。
そんな、飛鳥時代の大和の人々にとって、
まさに不浄の地でもあった蝦夷の国の、
中心的とも思われる場所に行ってみた。
場所は、花巻市東和町谷内にある丹内山(たんないさん)神社
※電話番号は伏せたので、ご理解いただきたい。
上の写真のように、多くのお社が、参道入り口から祭られていて、
あたかも、一番奥(上)にある巨石「胎内石」を隠すかのようにも、
見てとられる。
創建当時は、108のお堂と108の仏像が置かれていたということから、
かなり賑やかな境内だったことが予想される。
今では、その面影も少なくなったとはいえ、
依然として、不自然に多いことは明白。
108といえば、言わずと知れた人の煩悩の数。
何故に、そこまでムキになって、
多くの仏像を置く必要があったのだろうか。
さて、ここで既にお気づきかと思うが、
「神様だの仏像だのと、何を言っているんだ。」と、
お叱りにならないでいただきたい。
当時は、日本古来の神様と外来宗教である仏教とを、
合わせてしまうという信仰が主流となっていて、
いわゆる神仏混淆(しんぶつこんこう)だったのだ。
この神仏混淆の歴史は長く、
明治維新直後の、新政府による宗教政策をもって分離されるまで、
およそ1000年ほどの長きにわたって続いていた。
話を戻す。
また、この神社は、
奥州平泉文化を築き上げた藤原一族が参拝し、
さらには、江戸時代において
南部藩主の祈願所としても、尊崇された場所。
・・・では・・・この一番上に位置する「胎内石」とは?・・・
写真の看板にもあるように、飛鳥時代後期に
蝦夷が制圧された後に、朝廷の意向を受けて、建立されたとしている。
もう一枚の詳しい看板が・・・・
当時の記録は少なく、私が持っている「続日本紀」(しょくにほんぎ)にも、
有るか無しかで・・・・
無論、文字を持たない、蝦夷の手による記録はあるわけもなく・・・・
鬱蒼とした境内は、歩き難い不揃いの石段が多く、
足の悪い妻と、腰の悪い私には、厳しかったものの、
やっとの思いで、御本社と呼ばれる本殿に着いた。
それにしても風格のある建物である。
記録によれば1812年に再建されたらしい。
この位置からはまったく見えないのが、
本題の巨石である。
御本社であるこの神殿を拝礼している限りにおいては
このように、まったく視野に入らないが、
位置を右側に移すと
注連縄(しめなわ)が廻された巨石が目に飛び込んでくる。
この巨石が「アラハバキ大神の巨石」。
「アラハバキ」とは、東北地区一帯にみられる民俗信仰で、
本来は蝦夷の神であったとする説が、もっとも有力である。
ましてや「大神」であるだけに、
ここがアラハバキ信仰の中心ではないかと思われた。
石を割って、大きな樹木が伸びているが、
残念ながら、その樹木も枯れ気味であった。
すぐ傍にまで上がることができたので、
この巨石を、ぐるりとひとまわりはしたもの・・・・
この巨石には、圧倒されるばかりであった。
正直な話、
ご利益を受けて、安らかな気持ちになどまったくなれず、
呼吸することすら、苦しくなるほどであった。
そう感じたのは私だけではなかった・・・。
妻も「息苦しい感じがする。」と言い、
この圧力から逃げるように、早々に御本社のところまで降りた。
神々(こうごう)しいどころの話ではなくて、
とんでもないパワースポットだと感じた。
実はこの東和の地は、桓武天皇の時代、
朝廷軍に対抗する蝦夷の長であった阿弖流為(アテルイ)の、
極めて優秀な参謀役と称された、母禮(モレ)が治めていた地域でもある。
この時代、桓武天皇の命によって、
西暦780年の「呰麻呂(アザマロ)の乱」以降、38年間もの長きにわたって、
阿弖流為率いる蝦夷の少数軍勢と、
圧倒的に多勢の朝廷軍が戦いを繰り返していたのだ。
特にこの地域は、先に述べたように、
飛鳥時代前期に、邪馬台国の民が、和人を追いやった場所でもあり、
さらには、当時の流刑の地でもあったことから、
桓武天皇の命により、征夷大将軍であった坂上田村麻呂は、
土着の信仰を封じ込めるため、
邪馬台国の信仰でもあった、弘法大師空海の真言宗を持ち込み、
この「アラハバキ大神の巨石」の前に社を奉ったと思われる。
この改宗策は、北東北の各地に存在し、
多くの社の建立が、坂上田村麻呂の名とともになされた。
もちろん、蝦夷の民を制圧した後に、邪馬台国の宗教に改宗させ、
蝦夷の存在そのものを、長い年月をかけて記憶から抹消させることで、
その勢力を永久に封じ込めようとしたのだろう。
ここまで読み進んでいただくと、そろそろ気が付かれるだろうか?
そう、和人の末裔が蝦夷でもあるのだ。
その証が、出雲と岩手の方言がとても似ているという事実。
つまり先住民族としての蝦夷と、
東の国から逃れてきた和人が互いに助け合い、
寒さの厳しい岩手という北東北の地で、寛容に暮らし続け、
38年戦争では、ともに大和朝廷軍と戦っていたのだ。
次回の妙見信仰へと続く・・・・
<あとがき>
今回の多くの内容は、蝦夷の側からの記録が皆無のため、
あくまでも推察の域を越えない。
だが、推察を裏付ける事実があることも理解していただきたい。
そのことを知っていただきたいがための記事である。
郷土作家の高橋克彦氏の作品等にも、多くを参考に学ばせていただいている。
さらには、私自身の推論・暴論も加えていることに対し、ご容赦いただければ幸いである。
また文中に「蝦夷」(えみし)という文字を使っている。
「えぞ」という読みは、11世紀になってからの読みなので、
予めご理解いただきたい。
「蝦」はエビを意味し、「夷」は髭が長いこと、あるいは
「弓を引く人」などの意味を有し、諸説が多い。
初めて「蝦夷」という語は、日本書紀で使用され、
そこでは、その中心が「日高見国」と書かれているが、
おそらくは、北上川周辺を指し示すものと思われる。
さらにそこには「豊かな国なので、討ってとるべし」とまで書かれている。
おそらく「蝦夷」は、「髭の長い野蛮人」という蔑称だと解釈するのが、
もっとも一般的であるといえる。
その討伐目的は、我欲を広げるためか、
あるいは、残した禍根(後に記述)を抹消するためかは定かではない。
あえてここでは蝦夷を使うが、正直なところ、使いたくもない。
しかしながら、あくまでも、この東の民族の総称として、
記事を進める都合上、蝦夷を使用することにした。
さて前置きが長くなったが、
今回、記事にするのは、
日本古代史にとって、飛鳥時代後期という
いわば日本国の礎となる時代のことである。
この飛鳥時代を、分かり易く述べるならば、
聖徳太子が国政に参加した頃に始まり、
伊勢神宮の式年遷宮も、この飛鳥時代に儀式化され、
桓武天皇が長岡京から平安京に遷都するまでの間を指し示すのだ。
この平安京遷都によって平安時代の幕が開いたという、
そんな古い時代の話・・・・。
古代飛鳥の日本では、邪馬台国(大和)から見た蝦夷(えみし)は、
まさに未開の野蛮人(鬼畜生)が住む地域。
何のことはない、大和の国が征服しようにも
容易には手出しができなかったという、僻遠の地だったということ。
しかしながら、記録には残っていないが
蝦夷の国は、独自の文化を有する、
ひとつの大きな民族国家であったという事実が残る。
すなわち飛鳥時代は、大和と蝦夷の二つの国が、
この日本にあったということなのだ。
もともと大和という国は、
九州方向から北上してきたといわれる邪馬台国の人々が、
出雲の斐伊(ひい)の国(島根県の斐伊川周辺)に住んでいた和人を滅ぼし、
身内から天皇を担ぎ上げ、大和の国を造ったのだといわれる。
残党となった和人は、北東北に逃れ、
「東の和」という国を造ったと推察されている。
その中心地が、現在の、岩手県花巻市にある東和町といわれる。
さらには、飛鳥時代前期からは、朝廷の命により流刑に処された者は、
この北上山地に「島流し」されていたという記録があるらしい。
地名にも斐伊ではなく稗貫(ひえぬき)が現存し、
「斐伊抜き」(ひいぬき)から転じた地名なのではないかとも推測できる。
また「下閉伊」(しもへい)という地名は、
「北に下った斐伊」の意味合いなのからだろうか?
語感からしてあまりに酷似している。
逃れてきた和人の悔しさが、地名に残っているのだ。
無理やりな「あて字」のエピソード
「邪馬台」が転じて「大和」となったのだろうということ。
「大和」という文字はこの「やまと」という読みに特化した漢字。
「大」と「和」は、どう読み替えても「やまと」とは読めない。
邪馬台国の民が、和の民を制圧したことで「大きな和」の国を名乗り、
大陸の中国から、国として認めさせようとしたがために、
無理にでも「やまと」と呼ばせたのだろう。
しかしながら、この記事内では、混乱を避けるため
読みの正当性に拘らず「大和」と表現することにした。
流刑者のエピソード
北東北ではピンポイントで、温暖な海辺の地域がある。
そこは、岩手県宮古市。
真冬の日照時間は、北部三陸海岸では群を抜いて長い。
宮古市の地名の由来は、現在でも不詳である。
もしかすると・・・・
都から流刑処分され、前途を閉ざされた人々が移り住んではみたものの、
「都」という文字を使えなかったがための、
「古き宮」の意味合いで
「宮古」という文字を充てたのではないかと・・・・。
「住めば都」ではなく、「住むならここ(宮古)」だったのだろうか?
話を戻す。
飛鳥時代の後期に、大和の国は、もうひとつ大きな禍根を残した。
先住民族であった蝦夷(えみし)と大和朝廷軍との間に、
長い戦争の歴史があったことだ。
そんな、飛鳥時代の大和の人々にとって、
まさに不浄の地でもあった蝦夷の国の、
中心的とも思われる場所に行ってみた。
場所は、花巻市東和町谷内にある丹内山(たんないさん)神社
上の写真のように、多くのお社が、参道入り口から祭られていて、
あたかも、一番奥(上)にある巨石「胎内石」を隠すかのようにも、
見てとられる。
創建当時は、108のお堂と108の仏像が置かれていたということから、
かなり賑やかな境内だったことが予想される。
今では、その面影も少なくなったとはいえ、
依然として、不自然に多いことは明白。
108といえば、言わずと知れた人の煩悩の数。
何故に、そこまでムキになって、
多くの仏像を置く必要があったのだろうか。
さて、ここで既にお気づきかと思うが、
「神様だの仏像だのと、何を言っているんだ。」と、
お叱りにならないでいただきたい。
当時は、日本古来の神様と外来宗教である仏教とを、
合わせてしまうという信仰が主流となっていて、
いわゆる神仏混淆(しんぶつこんこう)だったのだ。
この神仏混淆の歴史は長く、
明治維新直後の、新政府による宗教政策をもって分離されるまで、
およそ1000年ほどの長きにわたって続いていた。
話を戻す。
また、この神社は、
奥州平泉文化を築き上げた藤原一族が参拝し、
さらには、江戸時代において
南部藩主の祈願所としても、尊崇された場所。
・・・では・・・この一番上に位置する「胎内石」とは?・・・
写真の看板にもあるように、飛鳥時代後期に
蝦夷が制圧された後に、朝廷の意向を受けて、建立されたとしている。
もう一枚の詳しい看板が・・・・
当時の記録は少なく、私が持っている「続日本紀」(しょくにほんぎ)にも、
有るか無しかで・・・・
無論、文字を持たない、蝦夷の手による記録はあるわけもなく・・・・
鬱蒼とした境内は、歩き難い不揃いの石段が多く、
足の悪い妻と、腰の悪い私には、厳しかったものの、
やっとの思いで、御本社と呼ばれる本殿に着いた。
それにしても風格のある建物である。
記録によれば1812年に再建されたらしい。
この位置からはまったく見えないのが、
本題の巨石である。
御本社であるこの神殿を拝礼している限りにおいては
このように、まったく視野に入らないが、
位置を右側に移すと
注連縄(しめなわ)が廻された巨石が目に飛び込んでくる。
この巨石が「アラハバキ大神の巨石」。
「アラハバキ」とは、東北地区一帯にみられる民俗信仰で、
本来は蝦夷の神であったとする説が、もっとも有力である。
ましてや「大神」であるだけに、
ここがアラハバキ信仰の中心ではないかと思われた。
石を割って、大きな樹木が伸びているが、
残念ながら、その樹木も枯れ気味であった。
すぐ傍にまで上がることができたので、
この巨石を、ぐるりとひとまわりはしたもの・・・・
この巨石には、圧倒されるばかりであった。
正直な話、
ご利益を受けて、安らかな気持ちになどまったくなれず、
呼吸することすら、苦しくなるほどであった。
そう感じたのは私だけではなかった・・・。
妻も「息苦しい感じがする。」と言い、
この圧力から逃げるように、早々に御本社のところまで降りた。
神々(こうごう)しいどころの話ではなくて、
とんでもないパワースポットだと感じた。
実はこの東和の地は、桓武天皇の時代、
朝廷軍に対抗する蝦夷の長であった阿弖流為(アテルイ)の、
極めて優秀な参謀役と称された、母禮(モレ)が治めていた地域でもある。
この時代、桓武天皇の命によって、
西暦780年の「呰麻呂(アザマロ)の乱」以降、38年間もの長きにわたって、
阿弖流為率いる蝦夷の少数軍勢と、
圧倒的に多勢の朝廷軍が戦いを繰り返していたのだ。
特にこの地域は、先に述べたように、
飛鳥時代前期に、邪馬台国の民が、和人を追いやった場所でもあり、
さらには、当時の流刑の地でもあったことから、
桓武天皇の命により、征夷大将軍であった坂上田村麻呂は、
土着の信仰を封じ込めるため、
邪馬台国の信仰でもあった、弘法大師空海の真言宗を持ち込み、
この「アラハバキ大神の巨石」の前に社を奉ったと思われる。
この改宗策は、北東北の各地に存在し、
多くの社の建立が、坂上田村麻呂の名とともになされた。
もちろん、蝦夷の民を制圧した後に、邪馬台国の宗教に改宗させ、
蝦夷の存在そのものを、長い年月をかけて記憶から抹消させることで、
その勢力を永久に封じ込めようとしたのだろう。
ここまで読み進んでいただくと、そろそろ気が付かれるだろうか?
そう、和人の末裔が蝦夷でもあるのだ。
その証が、出雲と岩手の方言がとても似ているという事実。
つまり先住民族としての蝦夷と、
東の国から逃れてきた和人が互いに助け合い、
寒さの厳しい岩手という北東北の地で、寛容に暮らし続け、
38年戦争では、ともに大和朝廷軍と戦っていたのだ。
次回の妙見信仰へと続く・・・・
<あとがき>
今回の多くの内容は、蝦夷の側からの記録が皆無のため、
あくまでも推察の域を越えない。
だが、推察を裏付ける事実があることも理解していただきたい。
そのことを知っていただきたいがための記事である。
郷土作家の高橋克彦氏の作品等にも、多くを参考に学ばせていただいている。
さらには、私自身の推論・暴論も加えていることに対し、ご容赦いただければ幸いである。







コメント
我が福島県にも東和町という地名があります。
もしかするとそういう謂れがあったのかもしれませんね。
ますます古代蝦夷の史跡巡りがしたくなりました。
また古事記から読み直そうかな?なんて刺激も受けました。
それにしてもmistyhillさんの博学ぶりには脱帽です。
おっしゃる通り、私も古事記を振り出しにしていますが、
古事記は、制作の意図が、あまりに手前味噌?なのか、難解ですね。(苦笑)
なので、推論と事実を紡ぎ合わせていくことの方が、面白いかと思っています。
幸いにして、高橋克彦さんの著作は、多くの楽しみを感じさせてくれるので、
私と妻の、外遊びの指南書でもあります。
おっしゃる通り、東和という町は、福島、宮城、岩手に存在します。
もしかすると、古代史で繋がっている可能性は高いと思いますが、
紐解くには、今の私には、力量不足です。
北上川の舟運で、広く交易を図っていたことから、
岩手と宮城の「東和」についての直接的な繋がりは、否定はできません。
福島とはもしかして、阿武隈川の舟繋がりという可能性もあります。
この点についての追求も面白いですね。
博学だなんて・・・ただの寄せ集めですよ、寄せ集め。
あれこれ書きながら、思案の結果を並べているに過ぎません。