縄文遺跡探訪(環状列石)

1万年もの間、続いたといわれる日本の縄文期

それも、いわゆる部族間抗争の跡が、ほとんど発見されず、
東北には、北海道を含めて、豊かに交易をしていた事実だけが残る。

現代の、内戦やテロが一向に消えてくれない、
そんな悲しい時代から見ると
どうして、そんなにも精神性の高い、
豊かな暮らしを、永きにわたって続けることができたのだろうか。

そんな疑問は消えない。

然し乍ら、この点において、今風の表現を借りるならば、
いわゆる「持続可能社会」として、
現時点で学ぶべきことが、多岐に及ぶ筈である。

悔しいことに、文字を持たないその時代は、
いかんせん記録そのものがない。


実は先日の青森旅行で、帰り道に寄りたかった場所のひとつが
秋田県鹿角市にある大湯環状列石であったが、
生憎の雨模様ということもあり、見学を断念したのだった。


そこで、悔し紛れと言っては恥ずかしいのだが、
規模は小さいものの、近隣にある環状列石を、
妻とともに、見学してきた。

北上市にある樺山遺跡
昭和52年に国の指定遺跡となり、
北上市教育委員会の手によって、今も美しく、この遺跡は管理されていた。

北上市の文化遺産に対する誇りと、心意気がうれしく感じられた。


※唯一、このブログサイトで気に入らないのが、Googleという大きな会社にも関わらず、写真の精度が甘いことである。今回の写真はすべて、Canon 6Dというフルサイズカメラを使用した。ぜひとも写真をクリックし、ピントのしっかりとした、奥行き感のある写真をご覧いただきたい。



上の写真の位置から左(南)方向を見ると、

なだらかな斜面に沿って、一帯に多くの環状列石が観察された。
芝もきれいに刈りそろえられていて、北上市民の憩いの場を窺わせた。

奥に見えた爪先上がりの斜面の下まで行くと、
丘の上には、竪穴式住居が設置されていた。

上の写真の左側にある階段を、妻と一緒に静かに上がって、
ゆっくりと振り返ると

豊かに広がる北上平野と、
北上川が長い時間をかけて作り上げた、
とてつもなく大きな、河岸段丘が見渡せた。

そう、自分が立っていた、この場所も河岸段丘の上にあるのだった。

度重なる北上川の氾濫による被害をさけるため、
川の状況を広く見渡せる、段丘の上に住居を建てていたのだ。

妻と意見が一致した。
「近ければ、お弁当持って、ここでのんびりしたいね。」と・・・

上の写真の右にも写っているが、栗の木が多くみられた。

栗の木は、発掘以後に植えられたものだろう。
特有の香りが漂い、今が満開とばかりに花が咲いていた。

そして重要な食料でもある「ドングリの木」と呼ばれる樹木類の、
カシ、カシワ、ナラなどのコナラ属樹木も多く植えられていた。

そして、祭事に使用したことを想定してか、
イヌシデの木も、管理者の手によって植えられていたのだ。

この木に由来するといわれる神事の道具のひとつ
四手(シデ)は、祭事でも使用されるもので、
馴染みの方も多いだろう。


さて、冒頭の環状列石についても、
未だにその存在理由についての、裏づけがないとされている。

しかしながら、ここに来て、確信したのは、
日時計でもなく、墓でもないということだった。

墓地区画は、このイヌシデのある竪穴式住居の丘から
一段下がった東側にあり、
北側に下がると環状列石となる。

日時計ならば、こんなにも多くの環状列石が
一箇所に並列的に存在する理由がないのだ。


長い時間、妻と、あれこれとそんな無駄話を繰り返した。


あくまでも素人の遊びから脱しきれないが、
こんな遊びも悪くないものだ。


・・・・次回は古代日本史の大きな転換点となった、
桓武天皇軍である朝廷軍と蝦夷との、38年戦争に関わるもので、

およそ1300年も昔の事でありながらも、
今もなお、圧倒的な存在感を見せる遺跡を紹介したい。



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